亀倉雄策と松永真 (2015年)
まず佐野研二郎氏の一連のオリンピックのエンブレムの報道について述べておきたい。
初めてエンブレムを見た時私は、その色と形に込められたコンセプトにとても関心していた。ただ、世の中は、彼のプロフェッショナリズムに対して異を唱えた。彼のエンブレムデザインがどんなに優れていたとしてもサントリーのバックのデザインでの盗用、写真の無許可での引用などが原因で、彼のデザイナーとしての信用は失墜した。デザイナーという職業が必要とする信頼性とは、何かを学んだように思う。
そうした背景も重なって、今回様々なデザイナーの作品を見る中で、オリジナリティーとは何かという事を重点的に考えながら見ていたように思う。特徴を捉えて簡略化していけばいくほど、何か他のものに似てきてしまうのは、仕方のない事かもしれない。果たして優れたデザインとオリジナリティーとは、両立するものなのだろうか。私が見てきたなかで、かっこいいと思ったものには、デザインの理念らしきものがあってそれがシンプルに表現されている。デザインには、あらゆる尺度がある。クライアントの特徴をとらえて簡略化する上で重要な点は、リズム感、色、スペースの取り方、など 線一本にしてもそこには、直線か曲線、横と縦、太さ・細さ、丸さと角など、メッセージや表現する対象を紙一枚に封じ込めるためのさまざまな工夫がある。デザインの巨匠達は、あらゆる方法の中からいくつかの方法だけを選び取ってその方法を表現に洗練させていく。その方法そのものが映えるようになるまで、いらないものを削ぎ落とし、メッセージやオブジェクトそのものの持つエッセンスをむき出しにする。
亀倉雄策と松永真のデザインは、対照的だ。二人とも誰にでもそれと分かるものを作っているが、方法が違う。亀倉雄策は、幾何学の反復や対比によって、図形と戯れながらにそれまでに見た事のなかったシンプルで且つ力強い深淵な形に行き着く。一方松永真の作品は、精神的な暖かさやしなやかさを感じる。力強さと繊細さの両方をオリジナルな表現で獲得し、多くの人に支持されるデザインを作り出しているように思う。デザインとは、ユニバーサルで誰にでも受け入れられるものであるべきだと僕は思っている。そうした作り方には、国籍や文化的背景は、関係がない。優れたデザイナーは、自分の言葉で、オリジナルな方法で語り、世界の文化と比肩する作品を独力で作り出しているのだ。そのためには、多くの人に支持される公正さが必要で、ごく一部の誰かにしか伝わらない表現とは違う。二人の表現とは、どんなものなのか。
松永は、本の中で、自分の生活体験について語っている。彼は、東京の高輪という都会のど真ん中で過ごした経験と疎開先で物資が困窮した生活経験の二つのフィルターを通して作品を作っている。そのことを大切にして、自分の生活の3メートル以内で感じる生活感の中から、商品を再定義してロゴやタイポグラフィーを製作しているというのだ。例えば、ティッシュのSCOTTIEの作品、クライアントからは、花をモチーフにティッシュのロゴをデザインしてほしいという要望があったらしい。ティッシュという清潔感を表現するために繊細で安心感のある線でタイポグラフィーを作り、彼は、そのバックグラウンドに色つきの縞模様で花を再デザインして作品を仕上げた。要素が少ない分、一つの要素に込められたコンセプトがはっきりしている。白いタイポグラフィーには、清潔感と体に優しい感じを割り振られ。白が際立つように縞模様の花を埋め込まれているのだ。哀愁や躍動観、静と動といった対照するようなものをバランスよく形に収めようとする時、私は普段沢山の色や要素を入れこんでしまうが、松永は違う。彼はほぼ2色か3色で表現する。スペースは、文字やロゴが映えるようにするために大切に扱われているように思った。
亀倉雄策のデザインは、バランス感のしっかりした図形やぶれのない構図やレイアウトによって物事の理想的な形を描いている。オリンピックのポスターは、シンプルなデザインの一例だと思う。ただ、なんの変哲もないいろんな国籍の人物が競争している写真をのせているだけである。丁寧にレイアウトし、当たり前の事を表現しているわけだが、これほど真っ向からストレートに陸上競技の姿を誰がみてもオリンピックだと分かるようなものを作るのは、並大抵のことではないと思った。しっかりとしたレイアウトでシンプルにデザインする事の難しさがある。普通の人がデザインすると、そこにいらないデコレーションを知らず知らずに入れてしまうのだと思う。私は、不安定なレイアウトからいらない要素を付け足してしまう。亀倉のデザインは、いらない要素がない。昭和シェルの貝のデザイン。理想的な貝の形を、イデアの世界から持ってきたかのようなきれいな貝の姿を精密で均等な曲線を配置している描いている。精密でぶれのない強いイメージだ。 NTTのロゴにも私は注目した。電話の受話器のグルグル巻きのコードをあれだけシンプルに描くのは、難しいことだと思う。 SHELLの文字は、均等に均一に置かれ、電話のコードも貝殻も完全に左右対称に描かれている。豪快に直球勝負の玉を投げる大投手のような作品から、彼がデザインの父といわれる所以も分からなくない気がした。
二人の作品を見て、優れたデザインは、オリジナリティーと両立していると思った。それは、表現や特徴がはっきりと主張しているからだ。ネット社会になって、より画像の類似が平易に発見できるようになった今でこそ、コンセプトや製作過程の大切さが身に浸みて分かる。個人的には、松永真が言う「フェアな精神」がとても好きだ。私は、何かを表現することで、人の役にたてるようになりたいと思っている。グラフィックや映像によって人の役に立つとはどういう事なのかを時々考えているのだが、松永真のフェアな精神というのは、一種の回答の一つなのではないかと思った。デザインは誰もが慕うものでなければならないと思う。老若男女、国籍問わず、親しみを持てる分かりやすいデザインというものは、物質文明に特化された一部の人にだけ理解されるものであってはならない。誰にでも分かる表現と公共性を持つことこそ大切で、そのことほど幅広いスタンスはないと思った。
MAC Design Academy における感想文課題より。
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