三度目の殺人を目撃して

真実のために戦う本格法廷劇を久しぶりにみた。 映画を観てなにかを書こうと思うと、骨が折れる気分になる事があるが僕は、この映画を鑑賞したあと何かを書いてみたいと思った。1回目に観たあと、その事をある人に話した。でももう一度見なければと思った。今は、その2回目の鑑賞の直後である。 カメラを通して機械的に獲たイメージを人間の力で物語のように紡ぐ映画というメディアを人はどこまで理解しているだろうか。映画「羅生門」について僕の祖母は、昔こう言った「真実というのは、人の主観によって左右される」と。映画について何かを書こうとする時、自分が何を目撃したのかが分からなくなる時がある。そして、もう一度見ても自分の認識が本当に正しいのか自信がなかったりする。個人の主観や認識能力なんてそんなものだ。「三度目の殺人」中では、真実のために誰もが戦うが誰も真実を話さない。しかし、映画の中で必死に戦う人たちのエネルギーに押され、何かを書いてみたいと思ってしまった。僕は、評論を書くつもりは全くない。世の中全ての評論家は、エセ評論家だと思っている。裁判官が人を裁く事に限界があるように、人が何かをジャッジする事は、厳密には不可能だと思っているからだ。 2回目に鑑賞したとき、被害者の妻と娘のキッチンでの会話から、彼女たちのおぞましい葛藤を私は、想像してしまった。真実に関する全ての証言は、人間の深層心理を提示する事にもなるのだろう。そして、フォーカスのずれた画面のすみで安堵しているようにみえる人物や呆然としている人物達を観た時。真実とは、人々の連なりから生まれるものなのだとも思った。「歴史の教科書は、勝者が作る。」そん

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